ブイブイPARTY vol.xxx

ブイブイPARTY vol.xxx の公演情報!

「黙することのポテンシャル」/批評再生塾三期生有志トークイベント【5/26(土)終演後】

批評再生塾三期生有志によるトークイベントを開催します。
ブイブイパーティの「静かな世界でパーティは成立するか」という問いをそのまま引き継ぎ、「静けさ/沈黙」をテーマに、「なぜ観客は静かにしていなければならないのか?」という素朴な疑問から、ジョン・ケージ4分33秒」が開いた地平と現代口語演劇の比較や、喧噪/沈黙から生じる共同性のことについて1時間ほど激論を交わします!

日 時:5月26日(土)17:30~終演後
登壇者:渋革まろん・イトウモ・太田充胤・高尾・伏見瞬

ステイトメン

ぼく―渋革まろん―が批評再生塾に通っている(た)というので、カキヤさんから関連企画でやらないかとお声がけいただきました。テーマは表題のとおりですが、単純に言ってぼくたちは「静けさ」にポジティブな印象を持っていると思います。電車で泣く子どもには「静かにしなさい」と叱るでしょうし、高級住宅街は「閑静な」の枕詞を必要とします。日本の少劇場史に一つの切断線を刻むことになった現代口語演劇もまた「都市に祝祭はいらない」というテーゼに確認できるような「反-祝祭」の「静けさ」を一つの価値としました。もちろんそれは外部を否定してカリスマに帰依するような「祝祭」をということですが、カリスマを脇に避けた「静けさ」の思想はむしろ暴走するノイジーな身体を招き寄せたようにも見えます。「静けさ」はどこかで「黙れ」を命じる権力へと変転する契機を持ち、強いられた無音のなかでヒトの身体は誤作動を起こしはじめるのです。

つまりぼくたちは「静けさ」を望みながら「静けさ」に窒息させられそうにもなる。しかし一方でジョン・ケージ4分33秒』の「沈黙」が示すように、ヒトの集まることから生じる〈ざわめき〉はいくら「静かにしろ」と命じられても身体の側から勝手にやってきてしまう。いわばヒトは集まろうとしてしまうのだし、身体は音を発してしまう。ならば黙することには〈ざわめき〉のポテンシャルが孕まれているのではないでしょうか。ぼくたちは騒音に耐えられない。けれど完全な無音にも耐えられない。かといってカリスマが先導する祝祭に浸ることもできない。

ではそこで「静けさ/沈黙」はどのような意味や可能性を持つでしょうか? あるいはそこから新しい〈集まり方〉を可能にするパーティーを考えることはできるでしょうか?